神撰
私と○氏は、物事の答えを出す時に「考える」と言うことを致しません。
自分を無くして答えを出す対象物を「感じる」と、答えがパッと出てきます。
私は幼少の頃から、このような「答え」の出し方しかしていませんでしたので、通常、人間が行う「考える」と言う行為そのものを理解し難かったのが正直なところです。
数年前に○氏に、人間が通常行う「思考」の方法を教えて頂きました。
「ああなって、こうなって、ああやって、こうやって、だから答えはこうなる」
等と通常は組み立てて考え答えを導き出すということを。
この様な答えの導き出し方は致しません。
非常にご説明をするのが難しいのですが、感じて答えを出すと言うことです。
この「感じて導き出す」答えは「真実」に直結します。
そして、答えに辿り着く時間も一瞬です。
但し、清い心身と圧倒的な集中力が必要です。
次のブログで、その一例を紹介します。
続き
「感じて出す答え」の一例をご紹介します。
先日○氏が「感じて」書かれた文面です。
○氏より
「神撰」
「神撰」を感じてみる。
「神撰」とは、
「米」「塩」「水」「酒」、、、。
これらは「個」と「液」である。
人間がこれらを神様に捧げる行為の意味は「理」を理解していると言う現れであり、神々を尊び賛美する表現である。
そして、それらを捧げることを当たり前とすることにより「拝む」(目に見えない<思いの力>)を「清い存在位置(神)」に供給することにより、更なる「進化」を自身に与える行為なのである。
(退化しないという戒め<いましめ>でもある。)
「進化」の方向を指し示している現れ(ヒント<名残>)であると言っても良い。
これらが「神事」の神髄である。
「循環」と「再生」を体系化した行為である。
「体感」の「継承」が「真実」を伝え、学ばせ、更には「理」を理解させ、新たな「理」を生むことなのである。
「神撰」一つを感じても、そこに真実はあり「理」の一端を垣間見ることが出来るのである。
これが、○氏が「神撰」を感じて出された答えです。
私も「神撰」を感じると、「うん、うん、その通り」と同じことを感じます。
「感じること」が出来ると答え合わせも一瞬です。
人間は一生をかけて清まる努力をすることが、本来あるべき正しい生き方なのだと言うことをまずは知るべきなのです。
清まることの素晴らしさが少しは伝わりましたでしょうか?
皆様が真実の方向へ進化されますことを、心より願っております。