2006.07.30
そして次に、薬師寺へ向かいました。
薬師寺で、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。
薬師寺のお坊さん曰く、奈良のお寺は昔から修行をする、今で言うところの学校で、沢山の方々が全国から修行をする為に来られた場所だったそうです。
そして、奈良のお寺には檀家さんが無く、お寺にお墓がないのです。
私は奈良で育っておりますので、お寺の雰囲気は、また神社とは全然違うのですが、お寺というのは、昔は奈良のお寺のような雰囲気だと思っておりました。
東京に住まいを移し、東京近郊のお寺(お寺にもよります。)に行くと、重いと感じるのです。
独特の重さがあるのです。
はっきり言ってしんどいのです。
何故こんなにも違うのだろうと、不思議に思っておりました。
土地の持つ力の違いや、住んでいる人の「質」が違い、その他、多くの要因があると思い、また感じるのですが、この奈良のお寺にお墓が無いと言う事を聞き、また1つ腑に落ちました。
やはりお墓があると、前にも書きましたが、どうしても成仏されていない存在が余りにも多く、思いが沢山その場に渦巻いているので、その場の雰囲気は悪くなってしまいます。(その事も何とかしたいと思い、今研究中です。)
奈良のお寺は、皆さん清まりに来る場所だったのですね。
奈良という所は、色々な意味で素晴らしい場所なのだなと思いました。
過去の歴史において、至る所で幾多の戦いがありましたが、戦いは様々な苦を生みました。その時の重々しい思いが、今も尚、残っている場所が沢山あります。
思いというのは、引き寄せ合うと言う習性がある様なので、その重々しい思いが増幅していて、とんでもない事になっている場所もあれば、その思いが徐々に清められていて、殆ど残っていない場所もあります。
一体それはどういうことなのでしょう?
奈良にも過去、戦いがあったでしょう。
しかし、奈良という場所はその様な重々しい思いが、あまり残っていないと感じるのです。
残っていないというのか?清まっている場所なのではないかなと思うのです。
勿論、奈良という場所は国宝が沢山あり戦火はありませんでしたが、それだけではないのではと思いました。
私は奈良を離れてみて、奈良という場所を客観視するようになり、より奈良が見えるようになりました。
奈良の人々は古いものを守るということが、自然に身についている方達なのではないかなと思うのです。
古き良きものを守り、守る為に新しいものに対して警戒し、極力新しいものを入れないでとにかく守っていらっしゃる。
それだけ古いものを大切に思い、大事にしていらっしゃるのだと思うのです。
そして、色々な習慣が残っており、お正月やお盆などに親族の皆さんが集まり、その時に亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの事を聞いたりします。
そして先祖様に手を合わせ、お経を唱えたり、ご詠歌を歌ったりと、その様な事が子供の頃からあり、自然に身についています。
そして、その習慣がずっと絶えることなく続いています。
そうやって、亡くなった方達を思う時間が生活の中にあるのです。
知らず知らずの間にやっている習慣が、多くの思いを残して亡くなった方達の思いを清めているという結果になっているのではないかなと思います。
その逆に、重々しい思いが残っている場所に、その思いに引き寄せられ、やって来た方達が、私利私欲の為に又新しい戦いを生み出したり、それによってまた苦しむ人達がいたりと・・・。
その様な事が繰り返されてしまうと、重々しい思いがどんどん膨れ上がってしまうという事になります。
そうしますと、清められた場所と、増幅した場所ではとんでもない差が出来てしまうのではないかなと思うのです。
思いが環境を作り、その環境の影響を私達は常に受けています。
悲しいかな、私の住んでいる東京では莫大な重たい思いが至る所に充満しているので、悪い影響の方が圧倒的に多く、それを何とかしたいと私達は神社に行きます。
そして、まずは其々の神社の神様に正常に機能して頂き、神様のお力をお借りしてその地域や人々にとってより良い環境になる様に、目に見えない存在の重たい思いや、充満している良いとは思えない思いを消したり、清めたりしているのです。
なかなか追いつかないというのが現状です。
やはり、生きている人の思いが自発的に変わる事が、環境を良くする最も早道なのではないかなとつくづく思う日々です。
この関西の神社仏閣を見て廻って、そんな事を強く感じました。
そして薬師寺の仏像を拝ませて頂き、薬師寺を後に致しました。