ある神社
続きまして、
××県××市××にあります
「××××」
この神社もインターネットで検索をして、お伺いすることを決めた神社です。
神社が良い状態で無いことはわかっていました。
しかし、御祭神である1柱の神様が、この神社か若しくは別の××県にある神社かのどちらかにおられるだろうと思い、今回お伺いをすることにした神社です。
いつもの様に○氏が神社に到着され、東京に居る私にお電話をくださりました。
○氏「大川さん、立派な造りの神社やわ。予想通り良い状態では無いわ。境内が気持ち悪し、神気を感じひんなぁ~。この状態やったら神さん居てもやられとるでぇ。」
私「わかりました。」
私も○氏も良い状態の神社であることを常に願っており、皆様に素晴らしい状態の神社仏閣ばかりを本当はお伝えしたいのです。
しかしながら、本当に良い状態の神社がなかなか無いのが真実なのです。
現代社会、または過去の歴史においても、人間模様や様々な利権、そして様々な立場の人達の思い込みや自身を守る生活があり、それら誤った継承が脈々と続いている為に、真実がダイレクトに伝え難い社会になっているのです。
なかなか声を大にして、全国の神社仏閣の状況をリアルにお伝えし難いのですが、ご了承頂ければ幸いです。
○氏「取り敢えず、いつもの様に本殿・拝殿内はもとより、境内にある神社、摂末社、祠内にいる不必要な存在全てを固めて拝殿前に呼ぶわ。それを写真に撮って送ります。」
私「わかりました。」
○氏から送られて来た写真を感じて見てみると、大量の気持ち悪い色々な存在が犇めきあっている姿が見えました。
○氏も「最悪やで!」
と言っておられました。
またまたいつも通り、○氏にそれら不必要な存在を全て祓い消滅して頂きました。
○氏「全ての祠を繋いで、神様が居たら拝殿前に出て来て貰うように呼ぶわ。そして、写真を撮って再度送ります。」
私「わかりました。宜しくお願いします。」
○氏から送られて来た写真を感じ見ると、、、。
髪の毛がボサボサで、胡座をかいており、うつ伏せに倒れていて白装束を着た姿が見えました。
うつ伏せに倒れているので顔は見えません。
この神社の神様です。
直ぐに○氏に電話をしてお伝えしました。
○氏も気持ち悪いもんが拝殿前に出てきたと言っておられました。
あとは、○氏にいつもの様に神社に結界を張って頂き、本殿に××××を入れて神様を本来あるべき良い状態に戻して頂きました。
この神様は、×××××を造った神様です。
この地方へ○氏が行かれる前に、東京で×××××に関しての力について、改めて○氏が感じたことを話しておられました。
私も○氏も共通の体感から、間違いなく×××××の更なる力を理解し確信していたところでした。
今回、この神社でこの神様にお会い出来たことも私と○氏が神様達と共に存在し、清く強い結び付きがあることを実感し確信させるものでした。
この次の神社に偶々お伺いするのも、まさにその流れなのです。
因みに世間では「必然」に拘る方々が多くおられるようですが、大抵は思い込みです。
真に「必然」を感じ、味わうためには、清いものから穢れたものまで全てを理解し、それらを使いこなせる清い存在位置と、清さの極みである存在位置にならなければ不可能なのです。
清い存在から穢れた存在までを正しく感じることが出来なければ「必然」を理解することは無理です。
頭だけで考えているようでは、知識から「必然」と言う言葉の意味合いと可能性を追い求め、狭い領域で誤った自身の体感や出来事に意味合いをつける思い込みにしか過ぎないのです。
一生を費やしても、同じ存在位置にいて高揚感と不安の裏返しである思い込みの世界に安堵を求めているだけなのです。
真実の進化からは程遠い過ちです。
話を戻します。
この神社も、本来あるべき素晴らしい状態になりました。
神様のお姿は、また別の機会にお伝え致します。
良い状態の神社がまた一つ増えたことを嬉しく思います。