聖護院門跡

仏閣

 

京都府京都市左京区聖護院中町15にあります「聖護院門跡」

大橋さんたちが次にお立ち寄りになられたのは「聖護院門跡」です。

大橋さんが副代表を務めておられますヘレン・カルディコット財団ジャパンが、今年の3月に開催された講演会の京都会場で開会のご挨拶をされたのが、聖護院門跡門主の宮城泰年さんです。

京都在住の会員さんがこちらのお寺とも深いご縁のあられる方であることや、財団代表のエイミー・ツジモトさんも深いご縁のあられるお寺であることも重なって、大橋さんが聖護院門跡に行かれるということで、現地でエイミー・ツジモトさんと息子さんとも合流されました。

「聖護院」は修験道のお寺・山伏のお寺です。

そして、お祀りされているのは不動明王をはじめとした修験道に関係する仏様を多くお祀りされているそうです。

滝行などの修行、何より不動明王さんと言えば、穢れた存在を祓い消滅させ、空間を清められる大橋さんですよね。

神様や仏様たちが大橋さんを導かれている様子が私にはよくわかります。

 

以下は「聖護院門跡」のホームページより

天台の第5代座主、智證大師円珍(814-91)が、 熊野那智の滝に一千日篭居をされた後、熊野より大峰修行を行われました。

その後大師の後を継ぎ、常光院の増誉大僧正が大峰修行を行われ、 修験僧として名をはせました。

この増誉大僧正は、寛治4年(1090)の白河上皇が熊野三山を参詣する熊野御幸に際して先達を務められ、その功績によって聖体護持の2字をとり、 聖護院という寺を賜ったのが聖護院の始まりになります。

 

増誉大僧正は、この時熊野三山検校職に任命され、 本山派修験の管領として全国の修験者の統括を命じられ、 聖護院の最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。

この後上皇によって行われた熊野御幸の案内は代々聖護院大先達が勤め、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど、熊野詣は盛んになり、また愛宕山も修験の行場として栄えました。

 

後白河天皇(1156-58)の皇子、静恵法親王が宮門跡として入寺されてより後、 明治維新まで37代門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となられた皇室と関係の深い寺院です。

しかし応仁の乱で焼失、洛北岩倉へ移ったのですが再び火災に遭ってしまいます。

その後市内烏丸今出川に建てられた伽藍も延宝の大火で延焼、1676年に旧地に復しました。

現在の建物はこの時のものですが、役行者一千三百年御遠忌を記念し、全国の教信徒の協力を得て数年をかけ修理、平成12年に完成しました。

 

聖護院のお偉い方が大橋さんたちに聖護院の歴史について説明しながら、敷地内を長時間にわたり丁寧にご案内くださったそうです。

素敵なお寺ですね。

私も次回、京都にお立ち寄りする際には大橋さんと共に「聖護院門跡」に参拝したいと思います。

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